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〜真実を知りたいという人間は学者になる、主観性に遊びたい人間は作家になる、しかし、その中間に横たわるものを求める人間はどうしたらよいの か、と。その答えとしては、そういう人間はエッセイズムにつくとということになりますが、それでは、いわゆる真実を求めるのと、主観性に遊ぶのと、その両 者の中間にあるものとして、何が考えられているかというと、われわれにとっては、やや意外なものが持ち出されます。
たとえば、道徳的な規範、そ のうちでも最も基本的な「汝ら殺すべからず」が、その一例だという。「汝ら殺すべからず」は真実ではない。かといって主観ではない。人はこの戒律にたいし て、大体どういう態度を取っているかというと、まずとにかく無反省に従う。その一方では、「汝ら殺すべからず」という戒律を踏みながら、さまざまな例外を 設ける。それだけではなくて、空想とか、芝居とか、三面記事とか、そういうことにおいては、むしろそれと正反対の可能性をもてあそぶ。無反省的にすがりつ くか、可能性の波の中で無責任に泳ぐか、その両極の態度しか取れない。
〜(中略)
ー魂のすべてをあげて物事をなしたいという欲求が、エッセイズムの原動力であるらしい。たとえば「人を殺してはならない」という戒律における、人の想念のいいかげんな相対意識、それに従っては、魂のすべてをあげて何事かをなすことはできない、というわけです。
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精神の運動/エッセイズムー「特性のない男」/ムージル観念のエロスより抜粋
エッ セイとは、イン・プログレスなものを曖昧に仮に表現するのではなく、ひとりの人間の内的な生が、ひとつの決定的な思考において取るところの、一回限りの、 きっぱりとした変更し難い形であると、ムージル「特性のない男」を解析する古井のエッセイズムに関する言及が肝に響く。この国で使われている柔らかい意味 合いのエッセイ(随筆)という意味ではなく、態度(その都度の変化の相においてみる考えにおいて突出した精神の形をくっきりと描く)を明快にする手法とし て、エッセイズムが鮮明になる。
精神の運動ということも、「鳥が巣をつくるように」自分を構築していく衝動として、力学的に認識の把握をしたのだった。
quotation and concerning the books.by Tetsuya Machida
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