quotation and concerning the books.by Tetsuya Machida

2006年8月31日木曜日

時子


高浦が殺されたのは、そんな辻ではなかった。殺されたのでもない。夜更けの道で通行人に言いがかりをつける若い者をたしなめたところが取り囲まれた。四人いた。掴みかかって来たのを一人は肩透かしにして一人は足払いをかけた。そこまではごく冷静に見えた。気おくれした連中に取りなしの言葉をかけて去ろうとした。ところが、それで安心したのか、重立った一人が及び腰から、卑しい悪態をついたそのとたんに、高年の同行者の話したところによると、高浦は忿怒の形相になり、逃げる機をなくした相手の前にゆっくりと近づき、手の出る前に、崩れ落ちた。
病院からだいぶ離れた幹線道路の交差点の、信号待ちの間のことだと言う。辻は辻になる。脳出血と診断された。打撲はなかった。同行者のほかにも信頼できる証人があって、傷害にはならないと警察は確認した。人に殺されるような高浦じゃない、と時子も得心した。ー
古井由吉「辻」より

梅雨の明けない7月の中頃、tokito ときと(時と)という風呂敷が浮かんでなかなか消えないので、書き留めていた。具体的で微細なアプローチの検証から離れて、これまでという大きな流れをと巡らせて出たものだったが、仕事の関係でその思考を思想へ成熟させぬまま放置しておいたのを、時子というこの女性の存在が再考を促すことになった。tokikoでもよい。どうも仕事柄、事柄を区別して整理しなければいけないという脅迫観念がどこかにあって、すぐれて自然な意識の流れを切断しがちであった。断片を生むのは良い。断片を整理するのはやめて、断片を流れに乗せようと。
                                 

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