精神性の極致というのは空虚に似ていることを思わせるヨハネスと、たった一人の、誰にも見られていないやさしさ、見られているという意識なしにまつわりつ く官能性を身体に顕すヴェロニカの、存在の交錯が主軸を成す「静かなヴェロニカの誘惑」/ムージル、を1968年頃翻訳した古井が、翻訳当時を振り返りつ つ、新装の翻訳に手直しを加える仕事を抱えて語った、円環の運動ー「ムージル観念のエロス」を再び、寝床と新幹線で辿る。
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ヴェ ロニカと物たちのとの間を隔てていた、うつろな空間が失われて、あたりは関係をはらんで、異様に緊張した、とあります。物たちとは、テーブルやら壁の時計 やらです。その物たちが隅々まで自身に満たされ、自身の内にしっかりつつみこまれた、と。言うなれば、物たちの、自己回復です。しかしそれと同時に、物た ちは時おりヴェロニカの内にもあるかのように感じられた。とある。
説明のしようもないことなのですが、おおよそ、こんなぐあいです。物たちは長年 の末に自身に立ち返って、撓みながら迫りあがった、と。充実あるいは充溢の感じです。その感じが奔放に物たちから流れ出て、ヴェロニカを周囲から締めつけ るかたちになりますが、その力を受けて、瞬間の感触が、ヴェロニカをつつんで盛りあがり、そして中空になる。すると、ヴェロニカ自身がいきなり、ひとつの 空間となり、蝋燭の火をゆらめかせながら、すべてをつつんで立っているかのようになる。「つつまれる」が、「つつむ」へ逆転したわけです。あるいは、「つ つまれる」と「つつむ」との、相即とも取れます。さらに、凸と凹、ポジとネガ、というような組み合わせにもできます。物たちをつつみこみその緊張から、と きおり疲れがヴェロニカの上へおおいかぶさってくる。すると、自分がただ明るく輝くかに感じられる。その明るさはヴェロニカのからだの隅々まで立ち昇り、 それをヴェロニカは外側から触れるようにわが身に感じ取り、かすかにざわめくランプの光のひろげる環に疲れると同じに、自分自身に疲れを覚えた、とある。
それからまた張りつめた目覚めの、その境目まで浮かびあがって、いまごろ、ヨハネスもこうしている、こんな現実の中に、変化した空間の中にいるのだ、と感じます。
ー円環の運動ー”反復”「ムージル観念のエロス」/古井由吉(1988岩波書店)より抜粋
quotation and concerning the books.by Tetsuya Machida
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