ーこの”からくり”は、次のようにいいかえられる。たとえば、作家たちが信じこんでいる「内面」「内部」「深層」という神話がどこからくるのか考えてみればよい。いうまでもなく、それは内的音声=超越論的なイディアという形而上学からくるのである。また、そのような「内部」に固執することが、制度に対する反抗や悪意の拠点であるかのような神話も同様だ。実際は、それこそ制度の一部なのであり、からくりなのである。ー
文字と文学「反文学論」柄谷行人より抜粋
rhinogradentia
quotation and concerning the books.by Tetsuya Machida
2007年6月30日土曜日
2007年1月11日木曜日
匿名という自己
ー
平野ー
実は僕たちが公私の別と言うとき、そこでいう「公」というのは、僕たちがどんな人間であるとかいうのを表現できて、それを受け止め、記録してくれるかつてのような公的領域ではなくて、経済活動と過度の親密さによって個性の表現を排除してしまっている社会領域に過ぎないのではないか、ということです。
ー中略ー
私的なことを公の場所に持ち込まないという日本人の古い美徳は、今や単に社会全体の効率的な経済活動から、個人の思いだとかを排除するための、都合の良い理由づけになってしまっている。急に卑近な例になりますけど、僕なんかは、日本で三年間、ほぼ毎日同じコンビ二に通っていても、店員と一回もプライベートな話をしたことがないんですね。彼がどういう人で、どういう考えの持ち主なのか、まったく分からない。僕は彼の個性についてまったく無知で、単に店員としか考えない。だけど、パリにいた時には、三日くらい続けて近所のカフェとかに行くと、向こうも気さくに握手なんかしてきて、「やあ、元気?君よく来るけど、この辺に住んでるの?」とか、そんなプライベートな話が始まるんです。日本では、店員と客という役割からお互いが出ることが、どうしても難しいでしょう?
梅田ー
なるほど。話はちょっと限定的になってしまうかもしれないけれど、たとえば日本で大企業に勤めている人のブログがほぼ匿名である理由は、日本の組織や社会の問題が大きいと僕は思います。
ー中略ー
平野ー
日本では調和が重んじられますが、悪くするとその「親密」さが、他者との距離を押しつぶしてしまって、日本人はみんな似ている、言葉にしなくても「だよね?」『うん、だよね」と分かり合えるといった、個性に対する一種の暴力としても機能してしまう。ー
ー中略ー
平野ー
それを換言すると、「環境」ということになるんですかね。フランスの社会学者のピエール・ブルデューが、「ハビトゥス」という概念を「資本主義のハビトゥス」で出していますが、ある社会環境の中、例えば上流階級の人たちは、子供の時からオペラを何回見ているか、もっと下のクラスの人たちはオペラを何回見たか、動物園に何回行ったことがあるかというのを、具体的な数字で調査すると、結局「階級」が再生産されていくのは、そういう環境にまつわるハビトゥス(習慣)のせいが大きいんだと言っているんです。ネットはそうしたハビトゥスの拘束からの解放をもたらすでしょうけど、ネットの中の多様な社会のどういう環境に個人が進んで身を置くかということにリアル世界のそもそもの環境が影響するのであれば、その格差を助長する傾向も見られるかもしれません。ー
第二章匿名社会のサバイバル術/ウエブ人間論より抜粋
匿名性と固有名(顔)のバランスの成熟というものもあるかもしれないが、こちらとしては最早世代の問題だろうか、匿名の記述に対しては、漫画の吹き出しのような感じで、真摯なものであっても匿名ということで、自然と記憶から削除する回路が働くようだ。
匿名が駄目ということでは勿論ないけれども、何度でも死ねる(匿名の変更)ような気軽さがそこから匂い立って正直に対峙しても裏切られるという儚さが最初に生まれる。
私はそもそも実名でウェブを使用しているが、当初より匿名ということは「卑怯」な態度として斥けていた。だからまあ、浅薄な狼狽え自体も隠したいとは思わない。この国の匿名性の氾濫ということは、家族制の喪失とつながるのかもしれない。
平野ー
実は僕たちが公私の別と言うとき、そこでいう「公」というのは、僕たちがどんな人間であるとかいうのを表現できて、それを受け止め、記録してくれるかつてのような公的領域ではなくて、経済活動と過度の親密さによって個性の表現を排除してしまっている社会領域に過ぎないのではないか、ということです。
ー中略ー
私的なことを公の場所に持ち込まないという日本人の古い美徳は、今や単に社会全体の効率的な経済活動から、個人の思いだとかを排除するための、都合の良い理由づけになってしまっている。急に卑近な例になりますけど、僕なんかは、日本で三年間、ほぼ毎日同じコンビ二に通っていても、店員と一回もプライベートな話をしたことがないんですね。彼がどういう人で、どういう考えの持ち主なのか、まったく分からない。僕は彼の個性についてまったく無知で、単に店員としか考えない。だけど、パリにいた時には、三日くらい続けて近所のカフェとかに行くと、向こうも気さくに握手なんかしてきて、「やあ、元気?君よく来るけど、この辺に住んでるの?」とか、そんなプライベートな話が始まるんです。日本では、店員と客という役割からお互いが出ることが、どうしても難しいでしょう?
梅田ー
なるほど。話はちょっと限定的になってしまうかもしれないけれど、たとえば日本で大企業に勤めている人のブログがほぼ匿名である理由は、日本の組織や社会の問題が大きいと僕は思います。
ー中略ー
平野ー
日本では調和が重んじられますが、悪くするとその「親密」さが、他者との距離を押しつぶしてしまって、日本人はみんな似ている、言葉にしなくても「だよね?」『うん、だよね」と分かり合えるといった、個性に対する一種の暴力としても機能してしまう。ー
ー中略ー
平野ー
それを換言すると、「環境」ということになるんですかね。フランスの社会学者のピエール・ブルデューが、「ハビトゥス」という概念を「資本主義のハビトゥス」で出していますが、ある社会環境の中、例えば上流階級の人たちは、子供の時からオペラを何回見ているか、もっと下のクラスの人たちはオペラを何回見たか、動物園に何回行ったことがあるかというのを、具体的な数字で調査すると、結局「階級」が再生産されていくのは、そういう環境にまつわるハビトゥス(習慣)のせいが大きいんだと言っているんです。ネットはそうしたハビトゥスの拘束からの解放をもたらすでしょうけど、ネットの中の多様な社会のどういう環境に個人が進んで身を置くかということにリアル世界のそもそもの環境が影響するのであれば、その格差を助長する傾向も見られるかもしれません。ー
第二章匿名社会のサバイバル術/ウエブ人間論より抜粋
匿名性と固有名(顔)のバランスの成熟というものもあるかもしれないが、こちらとしては最早世代の問題だろうか、匿名の記述に対しては、漫画の吹き出しのような感じで、真摯なものであっても匿名ということで、自然と記憶から削除する回路が働くようだ。
匿名が駄目ということでは勿論ないけれども、何度でも死ねる(匿名の変更)ような気軽さがそこから匂い立って正直に対峙しても裏切られるという儚さが最初に生まれる。
私はそもそも実名でウェブを使用しているが、当初より匿名ということは「卑怯」な態度として斥けていた。だからまあ、浅薄な狼狽え自体も隠したいとは思わない。この国の匿名性の氾濫ということは、家族制の喪失とつながるのかもしれない。
2006年11月14日火曜日
詩への小路
ー
眼の内から悪意の光さえ差さなければ善男善女の喜捨の雨を降らせそうな相貌、か。胆汁に漬けられたような瞳、氷雨の冷たさをよけいにきつくさせるその目つき、か。雪の泥道に難渋するその足取りは、まるで地下の死者たちを古靴で踏みつけにするようで、世界にたいする無関心よりも、敵意を思わせる、か。
境遇のことは、この際、敢えて置く。綺羅も襤褸も所詮変わらぬとする。年が寄れば、おのずと、悪意も煮詰まる。生涯の悔いも恨も怨も、ほかの情念の衰えるにつれて、肥大する。年が寄るとは、悪意の寄ることでもある。浮き世の果ては皆小町なり、とは芭蕉翁の名句であるが、これをもじって、浮き世の果ては皆悪尉なり、とこれもなかなか上出来でないか、とそのように、七人の老人を眺めておのれの先行きをひそかに憫れむのはしかし、まだ盛んな壮年の内のことである。
あのように悪意に満ちた姿形に見えるには、何も黒々とした悪意を抱くこともない、老い果てるだけで充分なのだ、悪意も無用、善意に満ちていても同じこと、と思うようになれば、いよいよ老境に入りかけたしるしである。ー中略
ー
ところが、道理にも情熱にも伴われぬ、喜怒哀楽にも見捨てられた、もっぱら必然に刻々追い立てられるところの、剥き出しの真剣さこそ、人が端から見れば、これほど悪相に見えるものはないのだ。
しかしこれら忌まわしき怪物どもはひとしく永遠の相をあらわしていた、と詩にはある。当然、そうだろう。人の老い果てた姿は、個別を超えた、永遠の相を成す。それぞれ個人の怨恨のあらわれた姿なら、反復になりはしない。ー
7、莫迦な/詩への小路/古井由吉、ボードレール「七人の老人」に関するエッセイより抜粋
眼の内から悪意の光さえ差さなければ善男善女の喜捨の雨を降らせそうな相貌、か。胆汁に漬けられたような瞳、氷雨の冷たさをよけいにきつくさせるその目つき、か。雪の泥道に難渋するその足取りは、まるで地下の死者たちを古靴で踏みつけにするようで、世界にたいする無関心よりも、敵意を思わせる、か。
境遇のことは、この際、敢えて置く。綺羅も襤褸も所詮変わらぬとする。年が寄れば、おのずと、悪意も煮詰まる。生涯の悔いも恨も怨も、ほかの情念の衰えるにつれて、肥大する。年が寄るとは、悪意の寄ることでもある。浮き世の果ては皆小町なり、とは芭蕉翁の名句であるが、これをもじって、浮き世の果ては皆悪尉なり、とこれもなかなか上出来でないか、とそのように、七人の老人を眺めておのれの先行きをひそかに憫れむのはしかし、まだ盛んな壮年の内のことである。
あのように悪意に満ちた姿形に見えるには、何も黒々とした悪意を抱くこともない、老い果てるだけで充分なのだ、悪意も無用、善意に満ちていても同じこと、と思うようになれば、いよいよ老境に入りかけたしるしである。ー中略
ー
ところが、道理にも情熱にも伴われぬ、喜怒哀楽にも見捨てられた、もっぱら必然に刻々追い立てられるところの、剥き出しの真剣さこそ、人が端から見れば、これほど悪相に見えるものはないのだ。
しかしこれら忌まわしき怪物どもはひとしく永遠の相をあらわしていた、と詩にはある。当然、そうだろう。人の老い果てた姿は、個別を超えた、永遠の相を成す。それぞれ個人の怨恨のあらわれた姿なら、反復になりはしない。ー
7、莫迦な/詩への小路/古井由吉、ボードレール「七人の老人」に関するエッセイより抜粋
2006年10月31日火曜日
頁の縁を折った
ー
心ないものにしても、石たちにとって、むごいことだ、と妙なことを思って自身も息苦しさに見舞われた。水平の方向へ目を逃すと、幾段にも重なって石の列がそれぞれわずかずつくねりながら近郊を先へ送っている。その従順さに惹きこまれた。もう死んでいる。とうに済んでいる、と石のひとつひとつへ宥めかけていた。石たちは遠近の方に逆らって、遠ざかるにつれ大きさを増して人の頭ほどに見える。人の頭が偶然の所に圧しつけられたきり、列全体としてかすかに悶えている。人ひとりの生涯も断続にして延べればこのような髑髏の列になるか、刻々と済んでいながら先へ先へと迫る。しかし列のところどころに、繰り越されてくる歪みを溜めて。今にも傾いではみ出しそうな、おのれを吐き出しそうな石たちがある。あれこそじつは、その場その場で、要の石になっているのではないか、と思って耳をやった。人の声のような思いだった。
人が恐れることは、じつはとうに起こってしまっている、とまた声がした。怯えてのがれようとしながら、現に起こってしまって取り返しもつかぬ事を、後から追いかけている、知らずにか、それとも知っていればこそか、ほんとうのところはわからない、誰にもわからない、と聞こえた。呻きそうな要の石の先からも、石がさらに先へ切迫して寄せるのが見えた。どこかで死者が長く詰めていた息を吐いた。細い雨が降り出した。
雨は三日も続いて、ようやく晴れあがった正午前にまた石垣の道に来ると、人にも見られず落花の残りが宙に舞い、石の間に浅く積もった土からとぼしい青草が萌えて、石の丸味の上に、ひとひらほどずつ、花びらが載っていた。供養のようだと眺めた。
ー
半日の花/辻/古井由吉
心ないものにしても、石たちにとって、むごいことだ、と妙なことを思って自身も息苦しさに見舞われた。水平の方向へ目を逃すと、幾段にも重なって石の列がそれぞれわずかずつくねりながら近郊を先へ送っている。その従順さに惹きこまれた。もう死んでいる。とうに済んでいる、と石のひとつひとつへ宥めかけていた。石たちは遠近の方に逆らって、遠ざかるにつれ大きさを増して人の頭ほどに見える。人の頭が偶然の所に圧しつけられたきり、列全体としてかすかに悶えている。人ひとりの生涯も断続にして延べればこのような髑髏の列になるか、刻々と済んでいながら先へ先へと迫る。しかし列のところどころに、繰り越されてくる歪みを溜めて。今にも傾いではみ出しそうな、おのれを吐き出しそうな石たちがある。あれこそじつは、その場その場で、要の石になっているのではないか、と思って耳をやった。人の声のような思いだった。
人が恐れることは、じつはとうに起こってしまっている、とまた声がした。怯えてのがれようとしながら、現に起こってしまって取り返しもつかぬ事を、後から追いかけている、知らずにか、それとも知っていればこそか、ほんとうのところはわからない、誰にもわからない、と聞こえた。呻きそうな要の石の先からも、石がさらに先へ切迫して寄せるのが見えた。どこかで死者が長く詰めていた息を吐いた。細い雨が降り出した。
雨は三日も続いて、ようやく晴れあがった正午前にまた石垣の道に来ると、人にも見られず落花の残りが宙に舞い、石の間に浅く積もった土からとぼしい青草が萌えて、石の丸味の上に、ひとひらほどずつ、花びらが載っていた。供養のようだと眺めた。
ー
半日の花/辻/古井由吉
2006年10月23日月曜日
背の静まり
ー
歯ぐきだけで笑うようなその顔には見覚えがあった。まだ日のよほど長かった頃から、暮れ方のベンチに腰をかけて、一人であのうすら笑いを浮かべていた。ホームレスではない。身なりは小ざっぱりとして、垢を溜めた様子もなく、白髪の頭は奇麗に刈りこまれている。そう言えば傍らに、黒い布のバッグのほかに、バスタオルらしきものの折り畳んだのが幾組か重ねて積んであった。そうして公園でまだ遊ぶ子供たちの姿の消えるのを待っていたらしい。
それから三日に一度はその寝床を眺めて通り過ぎた。すでに夜目に近くなっていたが遠くからは、人が中にいるとはとても見えない。近づくと、人のふくらみになる。それにしても、ベンチに座っていたところではひどく小柄な人でもなかったのに、物にくるまれて外に置かれると、人はこうも小さくなるものか、と毎度驚いた。眺めて過ぎるかぎりのことだが、身じろぎもしない。ビニールシートの中に頭まですっぽり入って蒸されはしないか、蚊に喰われはしないか、と他人事ながら呆れていたのがやがて、冷え込みはしないか、夜中までそうしているのか、家族は知っているのか、と心配される季節になり、彼岸も過ぎた頃、或る日、あれはもう人が入っていなくて、中は詰め物ばかりで、家の者を威すための、形代のつもりなのではないか、と疑いながら近づくと、例の寝床のしつらえたベンチの前に、暗くて年の頃はよくも見定められないが、若い男が腕組みをして、その背の静まりが、殺意に耐えているように見えた。ー
古井由吉「辻」/「暖かい髭」より抜粋
歯ぐきだけで笑うようなその顔には見覚えがあった。まだ日のよほど長かった頃から、暮れ方のベンチに腰をかけて、一人であのうすら笑いを浮かべていた。ホームレスではない。身なりは小ざっぱりとして、垢を溜めた様子もなく、白髪の頭は奇麗に刈りこまれている。そう言えば傍らに、黒い布のバッグのほかに、バスタオルらしきものの折り畳んだのが幾組か重ねて積んであった。そうして公園でまだ遊ぶ子供たちの姿の消えるのを待っていたらしい。
それから三日に一度はその寝床を眺めて通り過ぎた。すでに夜目に近くなっていたが遠くからは、人が中にいるとはとても見えない。近づくと、人のふくらみになる。それにしても、ベンチに座っていたところではひどく小柄な人でもなかったのに、物にくるまれて外に置かれると、人はこうも小さくなるものか、と毎度驚いた。眺めて過ぎるかぎりのことだが、身じろぎもしない。ビニールシートの中に頭まですっぽり入って蒸されはしないか、蚊に喰われはしないか、と他人事ながら呆れていたのがやがて、冷え込みはしないか、夜中までそうしているのか、家族は知っているのか、と心配される季節になり、彼岸も過ぎた頃、或る日、あれはもう人が入っていなくて、中は詰め物ばかりで、家の者を威すための、形代のつもりなのではないか、と疑いながら近づくと、例の寝床のしつらえたベンチの前に、暗くて年の頃はよくも見定められないが、若い男が腕組みをして、その背の静まりが、殺意に耐えているように見えた。ー
古井由吉「辻」/「暖かい髭」より抜粋
2006年10月17日火曜日
役
ー
またまどろむうちに、思いがけずヒトの厄介になってしまったが、日の暮れには足もしっかりしてくることだろうから出て行かなくてはならない、しかし、ここはどこだろう、と考えている。
あの女と交わって子供を二人もこしらえたところではないか、と驚いた。ずいぶん昔のことに思われた。別の土地、別の家でのことであった気もしてきて、となるとあの女はどうしていまここにいるのだろう、と訝った。奇遇に泣いて交わって、子供ができたのは、昨夜のことだったか、と時間が混乱を来して、子供の年を数えればわかることだと思い、しかし数えようにも、どこから数えたものか、その起点が知れないともどかしがり、つぎからつぎへ妙な方角へ引きまわされたあげくに、今度は足のだるさが先に来て目が覚めかかり、子供たちも学校へ通うようになったので、そろそろ、遠くてもいいからすこし広いところへ超さなくては、と妻と話したのがつい先日だったことを思い出した。夜中にこちらの部屋の通うことに、子供たちは気がついているのよ、と妻は言った。
子供たちは父親の、じつは本人の意識にはなかった命令を守らされて部屋に入って来なかったが、母親が世話をしに入る隙に戸口から首だけ出して、父親の寝込んでいるのが面白いらしく、足をばたばたさせて喜んだ。父親が手洗いにのそのそと出て来る時にも、近寄りはしなかったが、変な物を見てちょっとすくむような仕草から、身をくねらせて笑った。
ー
「役」/「辻」古井由吉より抜粋
またまどろむうちに、思いがけずヒトの厄介になってしまったが、日の暮れには足もしっかりしてくることだろうから出て行かなくてはならない、しかし、ここはどこだろう、と考えている。
あの女と交わって子供を二人もこしらえたところではないか、と驚いた。ずいぶん昔のことに思われた。別の土地、別の家でのことであった気もしてきて、となるとあの女はどうしていまここにいるのだろう、と訝った。奇遇に泣いて交わって、子供ができたのは、昨夜のことだったか、と時間が混乱を来して、子供の年を数えればわかることだと思い、しかし数えようにも、どこから数えたものか、その起点が知れないともどかしがり、つぎからつぎへ妙な方角へ引きまわされたあげくに、今度は足のだるさが先に来て目が覚めかかり、子供たちも学校へ通うようになったので、そろそろ、遠くてもいいからすこし広いところへ超さなくては、と妻と話したのがつい先日だったことを思い出した。夜中にこちらの部屋の通うことに、子供たちは気がついているのよ、と妻は言った。
子供たちは父親の、じつは本人の意識にはなかった命令を守らされて部屋に入って来なかったが、母親が世話をしに入る隙に戸口から首だけ出して、父親の寝込んでいるのが面白いらしく、足をばたばたさせて喜んだ。父親が手洗いにのそのそと出て来る時にも、近寄りはしなかったが、変な物を見てちょっとすくむような仕草から、身をくねらせて笑った。
ー
「役」/「辻」古井由吉より抜粋
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