quotation and concerning the books.by Tetsuya Machida

2006年10月23日月曜日

背の静まり


歯ぐきだけで笑うようなその顔には見覚えがあった。まだ日のよほど長かった頃から、暮れ方のベンチに腰をかけて、一人であのうすら笑いを浮かべていた。ホームレスではない。身なりは小ざっぱりとして、垢を溜めた様子もなく、白髪の頭は奇麗に刈りこまれている。そう言えば傍らに、黒い布のバッグのほかに、バスタオルらしきものの折り畳んだのが幾組か重ねて積んであった。そうして公園でまだ遊ぶ子供たちの姿の消えるのを待っていたらしい。
それから三日に一度はその寝床を眺めて通り過ぎた。すでに夜目に近くなっていたが遠くからは、人が中にいるとはとても見えない。近づくと、人のふくらみになる。それにしても、ベンチに座っていたところではひどく小柄な人でもなかったのに、物にくるまれて外に置かれると、人はこうも小さくなるものか、と毎度驚いた。眺めて過ぎるかぎりのことだが、身じろぎもしない。ビニールシートの中に頭まですっぽり入って蒸されはしないか、蚊に喰われはしないか、と他人事ながら呆れていたのがやがて、冷え込みはしないか、夜中までそうしているのか、家族は知っているのか、と心配される季節になり、彼岸も過ぎた頃、或る日、あれはもう人が入っていなくて、中は詰め物ばかりで、家の者を威すための、形代のつもりなのではないか、と疑いながら近づくと、例の寝床のしつらえたベンチの前に、暗くて年の頃はよくも見定められないが、若い男が腕組みをして、その背の静まりが、殺意に耐えているように見えた。ー

古井由吉「辻」/「暖かい髭」より抜粋

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