quotation and concerning the books.by Tetsuya Machida

2006年11月14日火曜日

詩への小路


眼の内から悪意の光さえ差さなければ善男善女の喜捨の雨を降らせそうな相貌、か。胆汁に漬けられたような瞳、氷雨の冷たさをよけいにきつくさせるその目つき、か。雪の泥道に難渋するその足取りは、まるで地下の死者たちを古靴で踏みつけにするようで、世界にたいする無関心よりも、敵意を思わせる、か。
境遇のことは、この際、敢えて置く。綺羅も襤褸も所詮変わらぬとする。年が寄れば、おのずと、悪意も煮詰まる。生涯の悔いも恨も怨も、ほかの情念の衰えるにつれて、肥大する。年が寄るとは、悪意の寄ることでもある。浮き世の果ては皆小町なり、とは芭蕉翁の名句であるが、これをもじって、浮き世の果ては皆悪尉なり、とこれもなかなか上出来でないか、とそのように、七人の老人を眺めておのれの先行きをひそかに憫れむのはしかし、まだ盛んな壮年の内のことである。
あのように悪意に満ちた姿形に見えるには、何も黒々とした悪意を抱くこともない、老い果てるだけで充分なのだ、悪意も無用、善意に満ちていても同じこと、と思うようになれば、いよいよ老境に入りかけたしるしである。ー中略

ところが、道理にも情熱にも伴われぬ、喜怒哀楽にも見捨てられた、もっぱら必然に刻々追い立てられるところの、剥き出しの真剣さこそ、人が端から見れば、これほど悪相に見えるものはないのだ。
しかしこれら忌まわしき怪物どもはひとしく永遠の相をあらわしていた、と詩にはある。当然、そうだろう。人の老い果てた姿は、個別を超えた、永遠の相を成す。それぞれ個人の怨恨のあらわれた姿なら、反復になりはしない。ー

7、莫迦な/詩への小路/古井由吉、ボードレール「七人の老人」に関するエッセイより抜粋

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