quotation and concerning the books.by Tetsuya Machida

2006年3月28日火曜日

エッセイズム


〜真実を知りたいという人間は学者になる、主観性に遊びたい人間は作家になる、しかし、その中間に横たわるものを求める人間はどうしたらよいの か、と。その答えとしては、そういう人間はエッセイズムにつくとということになりますが、それでは、いわゆる真実を求めるのと、主観性に遊ぶのと、その両 者の中間にあるものとして、何が考えられているかというと、われわれにとっては、やや意外なものが持ち出されます。
 たとえば、道徳的な規範、そ のうちでも最も基本的な「汝ら殺すべからず」が、その一例だという。「汝ら殺すべからず」は真実ではない。かといって主観ではない。人はこの戒律にたいし て、大体どういう態度を取っているかというと、まずとにかく無反省に従う。その一方では、「汝ら殺すべからず」という戒律を踏みながら、さまざまな例外を 設ける。それだけではなくて、空想とか、芝居とか、三面記事とか、そういうことにおいては、むしろそれと正反対の可能性をもてあそぶ。無反省的にすがりつ くか、可能性の波の中で無責任に泳ぐか、その両極の態度しか取れない。
〜(中略)
ー魂のすべてをあげて物事をなしたいという欲求が、エッセイズムの原動力であるらしい。たとえば「人を殺してはならない」という戒律における、人の想念のいいかげんな相対意識、それに従っては、魂のすべてをあげて何事かをなすことはできない、というわけです。

精神の運動/エッセイズムー「特性のない男」/ムージル観念のエロスより抜粋

エッ セイとは、イン・プログレスなものを曖昧に仮に表現するのではなく、ひとりの人間の内的な生が、ひとつの決定的な思考において取るところの、一回限りの、 きっぱりとした変更し難い形であると、ムージル「特性のない男」を解析する古井のエッセイズムに関する言及が肝に響く。この国で使われている柔らかい意味 合いのエッセイ(随筆)という意味ではなく、態度(その都度の変化の相においてみる考えにおいて突出した精神の形をくっきりと描く)を明快にする手法とし て、エッセイズムが鮮明になる。
精神の運動ということも、「鳥が巣をつくるように」自分を構築していく衝動として、力学的に認識の把握をしたのだった。

2006年3月13日月曜日

メビウスの環というより反転あるいは、逆説への飛び込み

精神性の極致というのは空虚に似ていることを思わせるヨハネスと、たった一人の、誰にも見られていないやさしさ、見られているという意識なしにまつわりつ く官能性を身体に顕すヴェロニカの、存在の交錯が主軸を成す「静かなヴェロニカの誘惑」/ムージル、を1968年頃翻訳した古井が、翻訳当時を振り返りつ つ、新装の翻訳に手直しを加える仕事を抱えて語った、円環の運動ー「ムージル観念のエロス」を再び、寝床と新幹線で辿る。



ヴェ ロニカと物たちのとの間を隔てていた、うつろな空間が失われて、あたりは関係をはらんで、異様に緊張した、とあります。物たちとは、テーブルやら壁の時計 やらです。その物たちが隅々まで自身に満たされ、自身の内にしっかりつつみこまれた、と。言うなれば、物たちの、自己回復です。しかしそれと同時に、物た ちは時おりヴェロニカの内にもあるかのように感じられた。とある。
説明のしようもないことなのですが、おおよそ、こんなぐあいです。物たちは長年 の末に自身に立ち返って、撓みながら迫りあがった、と。充実あるいは充溢の感じです。その感じが奔放に物たちから流れ出て、ヴェロニカを周囲から締めつけ るかたちになりますが、その力を受けて、瞬間の感触が、ヴェロニカをつつんで盛りあがり、そして中空になる。すると、ヴェロニカ自身がいきなり、ひとつの 空間となり、蝋燭の火をゆらめかせながら、すべてをつつんで立っているかのようになる。「つつまれる」が、「つつむ」へ逆転したわけです。あるいは、「つ つまれる」と「つつむ」との、相即とも取れます。さらに、凸と凹、ポジとネガ、というような組み合わせにもできます。物たちをつつみこみその緊張から、と きおり疲れがヴェロニカの上へおおいかぶさってくる。すると、自分がただ明るく輝くかに感じられる。その明るさはヴェロニカのからだの隅々まで立ち昇り、 それをヴェロニカは外側から触れるようにわが身に感じ取り、かすかにざわめくランプの光のひろげる環に疲れると同じに、自分自身に疲れを覚えた、とある。
 それからまた張りつめた目覚めの、その境目まで浮かびあがって、いまごろ、ヨハネスもこうしている、こんな現実の中に、変化した空間の中にいるのだ、と感じます。

ー円環の運動ー”反復”「ムージル観念のエロス」/古井由吉(1988岩波書店)より抜粋

2006年3月10日金曜日

受け取るあるいは渡す

3月21日パントマイム公演「アクシデント」記録撮影(DV,DC,Film)の仕事で、パントマイムパフォーマンスシアター「水と油」パントマイマー小野寺氏、藤田氏両名と、野沢温泉村立市川小学校4学年児童7名との演目のリハーサルをみつめる。


パントマイム(Pantomime)とは、台詞ではなく身体や表情で表現する演劇の形態。
大道芸(ストリートパフォーマンス)としても多く見られる表現方法で、実際には無い壁や扉、階段、エスカレータ、ロープ、風船などがあたかもその場に存在するかのように身振り手振りのパフォーマンスで表現すること。
単にマイムともいう。パントマイムをする人をパントマイミスト(Pantomimist)・マイマー(Mimer)・パントマイマー(Pantomimer)という。(パントマイマーは日本独特の呼称。)ー Wikipediaより

  音楽を導入として身体を自由に自己表現訓練するリトミックと、日々の自発的な取り組みから、この小学生たちは、パントマイマーと出会い、パントマイムとい うメソッドを学芸会のレヴェルを大きく踏み越えて取り組み始めた。プロのパフォーマーの所作の不思議を、繰り返しみつめ辿るという単純な反復作業自体に、 身体的な驚きと悦びが満ちていく証の輝きを瞳に宿らせる子どもたちは、3時間のリハーサルの時間に沿って、加速するような身体の動きを身につけていく。
  注目すべきは、演出と構成と舞台構築を同時に行う小野寺氏、藤田氏の、このコラボレーションへの態度が、都度の端的な指示に真っすぐに表明されており、個 別固有の子どもたちの本来的な資質を見極めながら、舞台演目であるのだという自覚を彼らに促しつつ、おそらく通常の訓練(プロとしての訓練・稽古)と同じ レヴェルの思考を此処で展開し、「演じる者」を明晰に、子供たちへは勿論、我々スタッフにも向かって開いていくことにある。
 兎角、半端な児童と所謂プロフェッショナルな大人とは、家族であっても真っ直ぐに向き合うことは少ない。一過的なものではなく、成熟を迎えることのできる、長い道のりの導入として、公演が可能性を新たに秘めることを期待したい。

2006年3月3日金曜日

Berlin

1985年から1987年まで、赤坂のドイツ文化会館にあるGoethe-Institut Tokyoに通い、脆弱なマイノリティーが互いを必要とするかに寄り添う東京にサヨナラしようとした理由はふたつあった。当時ベルリンという四カ国統治都 市の、こちらにしてみれば不可解な場所性への個人的な関心がまずあり、もうひとつは、ドイツ言語の石でできた積み木のような構文構造の論理性にこの身を すっかり預けることで、思考の基礎が都度の反射の話し言葉と稚拙な書き言葉との混合で混乱するしかない日本語を、自らの言語ツールとして改新し、考えるこ とを妄想と切断したいという大袈裟で無謀な期待が膨れたからであったが、そうした事前の思惑と、実際は随分違った。
欧州大陸という足を踏み外せば 国境を越える緊張感自体、こちらにとっては馴染みの無いことであったし、16国籍の学生が集うクラスでドイツ語を学ぶという空間が、私にとって唐突で現実 離れしていた。ポーランドから来ていた人間の言語習得の早さには、欧州言語が同じラテン語という基盤を持つとはいえ、生活の必要が、日に十数時間の言語学 習を彼らのみ可能としていた。
 ツエーレンドルフという郊外の住宅地に部屋を借り、ベルリン中心のツオー駅まで電車で通う日々の中、平穏で穏やか な住宅地の眺めが、こちらの期待を日々裏切るような光景にも感じていたので、クロイツベルクの荒廃したビルのクラブに夜な夜な遊びに行き、トイレで首に注 射器を刺したまま倒れ悶絶している男や女を見ても、傍観厭世の気分で、東京と何が違うのかと思ったものだ。シックというカラーズ専用のクラブでは、こちら は色はあるが、カラーズとしての自覚とプライドが全く無いことに気づいた。5マルクのジャックダニエルで、朝までストイックに踊るブルーカラーを長い時間 眺め、つまりこちらには目にみえる抑圧を喪失した人間であり、必要、根拠、動機も薄い根無し草であったが、そのかわり、よくもまあてくてく歩いた。首に キャメラをぶら下げ、時にはヴィデオを回しながら、壁は勿論、ヴァンジーなど狡猾に放置された自然の豊かなベルリン外縁をもずるずる歩き回ったものだ。そ の歩行で喪失していたモノが「他者性」であることを理解すると同時に身体に刷り込まれていったように思う。
Institutに張り出されていたゲ イの初老の独り身の部屋に暫く住んだある時、彼は、床のカーペットを剥がすように捲って、床を正方形に切り取った隠しドアを持ち上げ、秘密なんだがと言い ながら地下室(プレイルームと彼は英語で言った)へ案内してくれた。禁断のパーティーを行う場所だと笑うが、私は彼の所作を含め人生をまるごと、全く理解 できなかった。
そして、この時、理解しようとする、自身にとってだけ都合の良い、受け止めと排除の手法でしか世界を見ていなかったのだと思い知るのだった。