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心ないものにしても、石たちにとって、むごいことだ、と妙なことを思って自身も息苦しさに見舞われた。水平の方向へ目を逃すと、幾段にも重なって石の列がそれぞれわずかずつくねりながら近郊を先へ送っている。その従順さに惹きこまれた。もう死んでいる。とうに済んでいる、と石のひとつひとつへ宥めかけていた。石たちは遠近の方に逆らって、遠ざかるにつれ大きさを増して人の頭ほどに見える。人の頭が偶然の所に圧しつけられたきり、列全体としてかすかに悶えている。人ひとりの生涯も断続にして延べればこのような髑髏の列になるか、刻々と済んでいながら先へ先へと迫る。しかし列のところどころに、繰り越されてくる歪みを溜めて。今にも傾いではみ出しそうな、おのれを吐き出しそうな石たちがある。あれこそじつは、その場その場で、要の石になっているのではないか、と思って耳をやった。人の声のような思いだった。
人が恐れることは、じつはとうに起こってしまっている、とまた声がした。怯えてのがれようとしながら、現に起こってしまって取り返しもつかぬ事を、後から追いかけている、知らずにか、それとも知っていればこそか、ほんとうのところはわからない、誰にもわからない、と聞こえた。呻きそうな要の石の先からも、石がさらに先へ切迫して寄せるのが見えた。どこかで死者が長く詰めていた息を吐いた。細い雨が降り出した。
雨は三日も続いて、ようやく晴れあがった正午前にまた石垣の道に来ると、人にも見られず落花の残りが宙に舞い、石の間に浅く積もった土からとぼしい青草が萌えて、石の丸味の上に、ひとひらほどずつ、花びらが載っていた。供養のようだと眺めた。
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半日の花/辻/古井由吉
quotation and concerning the books.by Tetsuya Machida
2006年10月23日月曜日
背の静まり
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歯ぐきだけで笑うようなその顔には見覚えがあった。まだ日のよほど長かった頃から、暮れ方のベンチに腰をかけて、一人であのうすら笑いを浮かべていた。ホームレスではない。身なりは小ざっぱりとして、垢を溜めた様子もなく、白髪の頭は奇麗に刈りこまれている。そう言えば傍らに、黒い布のバッグのほかに、バスタオルらしきものの折り畳んだのが幾組か重ねて積んであった。そうして公園でまだ遊ぶ子供たちの姿の消えるのを待っていたらしい。
それから三日に一度はその寝床を眺めて通り過ぎた。すでに夜目に近くなっていたが遠くからは、人が中にいるとはとても見えない。近づくと、人のふくらみになる。それにしても、ベンチに座っていたところではひどく小柄な人でもなかったのに、物にくるまれて外に置かれると、人はこうも小さくなるものか、と毎度驚いた。眺めて過ぎるかぎりのことだが、身じろぎもしない。ビニールシートの中に頭まですっぽり入って蒸されはしないか、蚊に喰われはしないか、と他人事ながら呆れていたのがやがて、冷え込みはしないか、夜中までそうしているのか、家族は知っているのか、と心配される季節になり、彼岸も過ぎた頃、或る日、あれはもう人が入っていなくて、中は詰め物ばかりで、家の者を威すための、形代のつもりなのではないか、と疑いながら近づくと、例の寝床のしつらえたベンチの前に、暗くて年の頃はよくも見定められないが、若い男が腕組みをして、その背の静まりが、殺意に耐えているように見えた。ー
古井由吉「辻」/「暖かい髭」より抜粋
歯ぐきだけで笑うようなその顔には見覚えがあった。まだ日のよほど長かった頃から、暮れ方のベンチに腰をかけて、一人であのうすら笑いを浮かべていた。ホームレスではない。身なりは小ざっぱりとして、垢を溜めた様子もなく、白髪の頭は奇麗に刈りこまれている。そう言えば傍らに、黒い布のバッグのほかに、バスタオルらしきものの折り畳んだのが幾組か重ねて積んであった。そうして公園でまだ遊ぶ子供たちの姿の消えるのを待っていたらしい。
それから三日に一度はその寝床を眺めて通り過ぎた。すでに夜目に近くなっていたが遠くからは、人が中にいるとはとても見えない。近づくと、人のふくらみになる。それにしても、ベンチに座っていたところではひどく小柄な人でもなかったのに、物にくるまれて外に置かれると、人はこうも小さくなるものか、と毎度驚いた。眺めて過ぎるかぎりのことだが、身じろぎもしない。ビニールシートの中に頭まですっぽり入って蒸されはしないか、蚊に喰われはしないか、と他人事ながら呆れていたのがやがて、冷え込みはしないか、夜中までそうしているのか、家族は知っているのか、と心配される季節になり、彼岸も過ぎた頃、或る日、あれはもう人が入っていなくて、中は詰め物ばかりで、家の者を威すための、形代のつもりなのではないか、と疑いながら近づくと、例の寝床のしつらえたベンチの前に、暗くて年の頃はよくも見定められないが、若い男が腕組みをして、その背の静まりが、殺意に耐えているように見えた。ー
古井由吉「辻」/「暖かい髭」より抜粋
2006年10月17日火曜日
役
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またまどろむうちに、思いがけずヒトの厄介になってしまったが、日の暮れには足もしっかりしてくることだろうから出て行かなくてはならない、しかし、ここはどこだろう、と考えている。
あの女と交わって子供を二人もこしらえたところではないか、と驚いた。ずいぶん昔のことに思われた。別の土地、別の家でのことであった気もしてきて、となるとあの女はどうしていまここにいるのだろう、と訝った。奇遇に泣いて交わって、子供ができたのは、昨夜のことだったか、と時間が混乱を来して、子供の年を数えればわかることだと思い、しかし数えようにも、どこから数えたものか、その起点が知れないともどかしがり、つぎからつぎへ妙な方角へ引きまわされたあげくに、今度は足のだるさが先に来て目が覚めかかり、子供たちも学校へ通うようになったので、そろそろ、遠くてもいいからすこし広いところへ超さなくては、と妻と話したのがつい先日だったことを思い出した。夜中にこちらの部屋の通うことに、子供たちは気がついているのよ、と妻は言った。
子供たちは父親の、じつは本人の意識にはなかった命令を守らされて部屋に入って来なかったが、母親が世話をしに入る隙に戸口から首だけ出して、父親の寝込んでいるのが面白いらしく、足をばたばたさせて喜んだ。父親が手洗いにのそのそと出て来る時にも、近寄りはしなかったが、変な物を見てちょっとすくむような仕草から、身をくねらせて笑った。
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「役」/「辻」古井由吉より抜粋
またまどろむうちに、思いがけずヒトの厄介になってしまったが、日の暮れには足もしっかりしてくることだろうから出て行かなくてはならない、しかし、ここはどこだろう、と考えている。
あの女と交わって子供を二人もこしらえたところではないか、と驚いた。ずいぶん昔のことに思われた。別の土地、別の家でのことであった気もしてきて、となるとあの女はどうしていまここにいるのだろう、と訝った。奇遇に泣いて交わって、子供ができたのは、昨夜のことだったか、と時間が混乱を来して、子供の年を数えればわかることだと思い、しかし数えようにも、どこから数えたものか、その起点が知れないともどかしがり、つぎからつぎへ妙な方角へ引きまわされたあげくに、今度は足のだるさが先に来て目が覚めかかり、子供たちも学校へ通うようになったので、そろそろ、遠くてもいいからすこし広いところへ超さなくては、と妻と話したのがつい先日だったことを思い出した。夜中にこちらの部屋の通うことに、子供たちは気がついているのよ、と妻は言った。
子供たちは父親の、じつは本人の意識にはなかった命令を守らされて部屋に入って来なかったが、母親が世話をしに入る隙に戸口から首だけ出して、父親の寝込んでいるのが面白いらしく、足をばたばたさせて喜んだ。父親が手洗いにのそのそと出て来る時にも、近寄りはしなかったが、変な物を見てちょっとすくむような仕草から、身をくねらせて笑った。
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「役」/「辻」古井由吉より抜粋
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