quotation and concerning the books.by Tetsuya Machida

2007年1月11日木曜日

匿名という自己


平野ー
実は僕たちが公私の別と言うとき、そこでいう「公」というのは、僕たちがどんな人間であるとかいうのを表現できて、それを受け止め、記録してくれるかつてのような公的領域ではなくて、経済活動と過度の親密さによって個性の表現を排除してしまっている社会領域に過ぎないのではないか、ということです。
ー中略ー
私的なことを公の場所に持ち込まないという日本人の古い美徳は、今や単に社会全体の効率的な経済活動から、個人の思いだとかを排除するための、都合の良い理由づけになってしまっている。急に卑近な例になりますけど、僕なんかは、日本で三年間、ほぼ毎日同じコンビ二に通っていても、店員と一回もプライベートな話をしたことがないんですね。彼がどういう人で、どういう考えの持ち主なのか、まったく分からない。僕は彼の個性についてまったく無知で、単に店員としか考えない。だけど、パリにいた時には、三日くらい続けて近所のカフェとかに行くと、向こうも気さくに握手なんかしてきて、「やあ、元気?君よく来るけど、この辺に住んでるの?」とか、そんなプライベートな話が始まるんです。日本では、店員と客という役割からお互いが出ることが、どうしても難しいでしょう?

梅田ー
なるほど。話はちょっと限定的になってしまうかもしれないけれど、たとえば日本で大企業に勤めている人のブログがほぼ匿名である理由は、日本の組織や社会の問題が大きいと僕は思います。
ー中略ー
平野ー
日本では調和が重んじられますが、悪くするとその「親密」さが、他者との距離を押しつぶしてしまって、日本人はみんな似ている、言葉にしなくても「だよね?」『うん、だよね」と分かり合えるといった、個性に対する一種の暴力としても機能してしまう。ー
ー中略ー
平野ー
それを換言すると、「環境」ということになるんですかね。フランスの社会学者のピエール・ブルデューが、「ハビトゥス」という概念を「資本主義のハビトゥス」で出していますが、ある社会環境の中、例えば上流階級の人たちは、子供の時からオペラを何回見ているか、もっと下のクラスの人たちはオペラを何回見たか、動物園に何回行ったことがあるかというのを、具体的な数字で調査すると、結局「階級」が再生産されていくのは、そういう環境にまつわるハビトゥス(習慣)のせいが大きいんだと言っているんです。ネットはそうしたハビトゥスの拘束からの解放をもたらすでしょうけど、ネットの中の多様な社会のどういう環境に個人が進んで身を置くかということにリアル世界のそもそもの環境が影響するのであれば、その格差を助長する傾向も見られるかもしれません。ー

第二章匿名社会のサバイバル術/ウエブ人間論より抜粋


匿名性と固有名(顔)のバランスの成熟というものもあるかもしれないが、こちらとしては最早世代の問題だろうか、匿名の記述に対しては、漫画の吹き出しのような感じで、真摯なものであっても匿名ということで、自然と記憶から削除する回路が働くようだ。
匿名が駄目ということでは勿論ないけれども、何度でも死ねる(匿名の変更)ような気軽さがそこから匂い立って正直に対峙しても裏切られるという儚さが最初に生まれる。
私はそもそも実名でウェブを使用しているが、当初より匿名ということは「卑怯」な態度として斥けていた。だからまあ、浅薄な狼狽え自体も隠したいとは思わない。この国の匿名性の氾濫ということは、家族制の喪失とつながるのかもしれない。